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◇ 流作場探訪

◇ 玄的の青蛙

★☆★ 流作場伝説 玄的の青蛙 由緒
 当地、流作場は延享3年(1746年)に安倍玄的(あべげんとき)様が信濃川の島嶼(とうしょ)を開拓して住家15軒にて玄的村を開くに始まる。
 元来水損地のため、文化4~5年(1807~8)年、三度の大洪水に襲われ、壊滅的状況に至り廃村を決意した。
 しかし、その惨状の中で沢山の青蛙が力強く生きている姿に村人たちは発憤して自らを「玄的の青蛙」と呼び水と戦い、水と和して村を再建したと言い伝えられている。
 今日の繁栄は先祖たち「玄的の青蛙」の不屈の努力によってもたされた賜物である。
 当地に起業して、本年会社創業満70周年を迎える東和造船株式会社 代表取締役 五十嵐由之氏は、禍を福に替えた開拓者の功績を讃え、  この伝説を顕彰したく三社神社境内地に「玄的の青蛙」を奉納した。

◇ 川村修就奉行行列

新潟まつりの先導役

 天保14年(1843)6月川村修就は新潟奉行を拝命する。幕府は新潟を長岡藩から上知することに成功した。新潟幕府よる支配体制を固め、日本海側の防備を進めることが任務であった。 川村はその主要な任務だけでなく、新たに幕府領となった新潟町を支配するため、また街の治安を安定させるため、様々の制度を進めた。 それと共に以前から長岡藩のもとでずっと行われていた砂防林の造成を積極的に推し進めた,川村奉行行列は、新潟まつり江東地区実行委員会が実施し、 8月7日のまつり行列(現在は8月の第1(もしくは第2)土曜日に開催)の万代地区の先導役として重要な役割を担うまでになって、 すでに11年、地元でも歴史ある行事となった。新潟まつりは80万人の人出で賑わいました。

※ 川村修就(かわむらながたか)

 寛政7年(1795)~明治11年(1878)は、江戸時代の武士。文化13年(1816)、22歳で小十人格御庭番となる。天保10年(1839)御裏御門切手番に昇進。
 天保14年(1843)、長岡藩の領地であった新潟港が収公され天領となると、その初代新潟奉行として任命され、嘉永5年(1852)まで奉行の役目をつとめた。
 奉行として赴任後は新潟港の整備を進め、新潟港付近の木材伐採を禁じ、6年間で3万本の砂防林を植えたと言われている。
 その後は堺奉行、大坂町奉行と転進し、長崎奉行に就任。元治元年(1864)に高齢のため寄合となり、明治維新以降も東京にとどまって余生を送り、明治11年(1878)に84歳で没した。
 後年、川村家の子孫は、家に残った史料を、江戸時代のものは新潟市歴史博物館に、明治以降は江戸東京博物館にそれぞれ寄贈しており、新潟市歴史博物館には、修就の肖像画や、  修就が300両で明珍に作らせたという腹巻など、ゆかりの品々が所蔵されている。
 修就は当時の老中・水野忠邦の後ろ盾を得ており、そのため出世も順調であったという。
 幕府領になる前の新潟港は、唐物が安価で売られ、薩摩からの密貿易によって運ばれてきたのではないかという風聞が流れていた。 修就は真偽を確かめるべく、飴屋に扮して新潟に潜入し情報収集を行っていたと、孫にあたる川村清雄が証言している。

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◇ 流作場の歴史

三社神社 宮司 大橋 毅

安倍玄的 頌徳碑(しょうとくひ)の建立を

 今日、万代・南万代地区という地域は、昭和43年新潟市施行の住居表示変更まで流作場といった。
 駅南プラーカより万代島朱鷺メッセ、万代町通り、万代シティを含む広い地域で、新潟駅・バスセンター・佐渡汽船など交通の要所を有している
 当地は昔信濃川に点在していた島嶼(とうしょ)で、長岡領「附寄島(つきよりじま)」といった。
 今を遡る270年前、延享3年、長岡藩の求めに応じ、安倍玄的(あべげんとき)翁が開発権利金2,750両を納めて83歳で入植した。
 はじめ9軒のち15軒を以て玄的村を形成、人口100名に満たない村民は難関を克服し長岡領越後国蒲原郡附寄島新田を作った。
 
 時代を経て、弘化2年(1845)、幕府領(天領)となり、流作場となった。
 幕末戊辰戦争を経験、さらに明治天皇東海北陸御巡幸の折、安倍邸は御休息所を勤めた。
 明治になり萬代橋架設、新潟駅の開設など発展の基礎ができた。
 安倍家歴代は地域の発展と児童の教育に尽力し、沼垂幼稚園の開園、また万代小学校の開校のため、その敷地を提供した。
 平成22年安倍家はその居を東京に移され元屋敷はなくなった。
 安倍家より貴重な歴史的碑文、古文書、絵図などは当地鎮守三社神社へ継承された。
 現在開拓の祖、安倍玄的翁の遺徳を顕彰するものは何もなく、今その頌徳碑の建立が望まれている。
 (万代コミ協だより 24号より抜粋)

流作場開拓と湊争訟

 越後守護上杉謙信時代三ケ津という蒲原、沼垂、新潟、三港があり阿賀野川、信濃川の港湾都市として共に栄えていた。然し、寛永8年(1631)大洪水により 阿賀野川と信濃川を通船する細流加茂屋堀りが決壊し阿賀、信濃両川の水戸口が一つとなって海に注いだ。
 此の為沼垂、蒲原両港は水流の変化による川欠けで次第に陸地が削られて港湾都市機能が著しく低下し蒲原港は衰微して終った。沼垂は機能回復のため延宝7年(1979)王瀬に掘割を開鑿した。
 此れに対して新潟町から異議が幕府へ提出されて訴訟となり延宝9年幕府は新潟町の勝訴とした。以来文政8年まで両者の間で七回の争いがあり此れを湊争訟と言う。
 元禄時代には信濃川に13の島嶼が形成されその帰属を廻り沼垂、新潟間で元禄10年争訟が起こり12年幕府評定所は新潟町の勝訴とし以後長岡領として新潟町に属した。
 此の無人の島嶼を「附寄島」と言った。
   延享3年(1746)長岡藩六代藩主牧野忠敬は藩財政建て直しのため開拓請負金2,750両を納める者に「附寄島」開拓の権利を与える事で公募した。
 此れに安倍玄的が応じた事に対して新潟町から藩庁へ開発中止の訴えが提出された。理由として川港の宿命で上流からの土砂が堆積し  船の水路が定まらず年々港の機能が低下する悩みがあり非常事態に至った時「附寄島」へ港湾都市機能の全てを移す計画があった。
 此れに対して貞享元年現在地に移転した沼垂町から異議が幕府評定所へ出された。それは附寄島が沼垂、蒲原の土地の川欠で出来た物であり沼垂に距離も近く  当然沼垂の物との訴えで此れを延享の争訟と言い延享4年新潟町の勝訴となり開拓が認められた。
 長岡藩は新潟町に十二ケ条の誓約書を示し開発人安倍玄的、近江屋曾平、寺山幸肋、中倉源兵衛、関川助市の5名を以って開拓を命じた。
 (万代コミ協だより 25号より抜粋)

流作場開拓と延享湊訴訟

 延享3年(1746)長岡藩六代藩主牧野宏敏は附寄島の開拓を計画した。此れに対して新潟町は藩へ開拓反対の異議を提出し、此れに絡んで新潟・沼垂の間に 「延享湊争訟」が起きた。新潟町の真諦労潟湊が川港の宿命として上流からの土砂の堆積、冬の強風に海から水戸口や川中へ押し上がる砂の影響で澪筋(航路) が変化する大きな問題があった。将来水利地形の変動で附寄島へ全町民が移住して新しく港を作る計画があり開拓に反対だった。
之に対して長岡藩から新潟町へ十二ケ条の約諾書が提示された。(全文は長く重要な条項のほかは要約する)
一、後年に至り港津に異常を生じ又は地域に変動在りたる場合は新田開発人を立ち退かしめこれを返還する。
五、島地の範囲において築堤又は川除け刎ねその他、港の支障となるべき一切工事は避けさせる。
八、附寄島新田開発の事に付き幕府の尋問又は新発田藩より交渉を受けたる場合は、領主が疎明に当たり町民に迷惑を及ぼさざるべし。
九、新潟に1敏1歩の田圃なきは已に公儀へ達しあるを以って、今次の新田開発は、新潟人之に加わるを許さず。(後略)以上の他に普請用の萱取り場、 土取り場を島地に設ける事、沼垂町との争訟の場合経費を藩が負担する、附寄島島民の支配は新潟町に任せ、租税収納は曽根代営所が行う、 島地移転の際は市街条坊区画も保障する等大きな譲歩をした約諾書を示し異議を撤回させた。
延享4年(1747)沼垂町から島の帰属と澪筋の境界に付いて異議が出て争訟となったが新潟町が勝訴した。
 開拓者安倍玄的と長岡藩の約定
一、後年(開拓後)新発田領民または他領民で一部の開発希望する時は長岡藩へ伺いを立てて之を決定する。新潟町民には絶対に許可を与えない章を原則とする。
二、新発田領(沼垂)から開発に付いて異議の申し立てがあった場合、領主の命令で行う事であるから長岡藩で責任を持って解決する事。
以上の約定により開拓に万全を期した。
 流作場が長い間水害に悩まされる状況に置かれたのは藩と新潟町の間で取り交わされた約諾書第五条により堤防を築く事、 水流を弱める刎ね杭を水辺に打つ事を禁じられた事が大きな要因となった。
   (万代コミ協だより 26号より抜粋)

流作場開拓者略伝

 流作場の開拓は延享3年長岡藩主牧野忠敬の藩財政建て直し策で「附寄島」開拓権利を地代金2,750両で与える公募をした。此れに安倍玄的、 近江屋曾平、寺山幸助、中倉源兵衛、関川助市連名で応じ認められた。

一、安倍玄的橘香方(白河領五泉町民)安倍家は奥州の名族安倍貞任を遠祖とし安倍茂助が山形より越後国に移住した。元和4年安倍善兵衛が 中蒲原郡新関村大字安倍新を開き代々庄屋を勤めた。白河領五泉に居住し屋号を「新津屋」と言う漢方医であった。玄的は寛文2年誕生、長じて漢方医と成り村松藩御殿医を勤め新田開発事業家でもあった。 西蒲巻町赤鏥、中之口村等で新田開発をした。延享3年85歳の高齢ながら地代金を納め「附寄島」の開拓に後継者三郎衛門、権太夫達と同年8月入植した。
寛延3年7月15日享年89歳で歿し第一次計画終了検地を受けた。(五泉は福島白河藩松平家飛び地領)
  一、近江屋曾平(新潟町民)近江屋は本姓宮川氏、先祖は宮川縫殿祐、其の出自は近江国宮川村で屋号を近江屋と言い慶長年代新潟浜村に移住。
慶長19年高田藩主松平忠輝の命で新潟町肝煎となり明治まで町役の要職を務めた名家。附寄島開拓は新潟町の存亡に関る一大事であり町老近江屋が工事の目付役として関わった。
然し、「近江屋曾平」の名は資料に無く時代的に5代目清左衛門が変名して町代表となり藩庁との交渉に当ったと考えられる。 新潟・沼垂間での争訴、安倍玄的との約定等もあり本名を名乗る事を憚った可能性がある。寛延2年「半蔵」と改名し10月13日病没。
一、寺山幸助(新潟町民)寺山幸助は長岡藩より拝領地(毘沙門島)を賜る長老格、町役人の家柄。附寄島開発に付いて金主取次ぎなどに助力して 其の功績を藩主に認められ開発地に3町歩の土地と当座の褒美金20両を拝領した。
一、中倉源兵衛(高橋村民)高橋村は西蒲原郡岩室村高橋、後の三根山藩。中倉源兵衛に付いて明らかな事跡は分らない。
一、関川助市(片桐村民)片桐村は現在の見附市片桐町で新発田藩分家池之端家の所領だった。関川助市の事跡は明らかでない。
 中倉、関川両者は新潟町とは関り無く開拓人安倍玄的が嘗て行なった新田開発に接点が感じられ本事業を保証支援する補佐役的存在であったと考えられる。
 (万代コミ協だより 27号より抜粋)

流作場開拓者略伝

流作場開拓と三社神社創建由来
流作場鎮守 三社神社
御鎮座地  新潟市中央区三和町一番一号
御 祭 神
大日孁貴ノ命(おおひるめむちのみこと)(伊勢神宮)
誉田別ノ命(ほむだわけのみこと) (八幡宮)
武甕槌ノ命(たけみかつちのみこと) (鹿島神宮)
 延享3年(1746)安倍玄的は開拓に先立ち島嶼「附寄島」を「日島」「月島」「星島」と三等分して15軒の入植者と共に開拓の鍬を入れた。
 はじめ「日島」現在の三和町(旧居村町)の測量を行った。此の時延享4年(1747)4月26日開拓の成功と村の繁栄の守護神として一祠を建立した。
 此の頃「附寄島」は公的に長岡領越後国蒲原郡附寄島新田と定まり、地籍は曽根組、戸籍は新潟町に属す「一村両制」と言う制度であった。
 要するに年貢などは曽根代官所の管轄で、戸籍人別などは新潟町奉行所の支配下にあった。元禄12年新河田が島内に祀った弁天堂が在ったが新しく守護神を祀った。  新潟町船江神社の神主行田和泉正好の中取次ぎで伊勢神宮より御分霊を奉戴して小社を祀る事ができた。

 此の神社を「附寄島大神宮」「附寄島神明宮」また玄的村の名により「玄的のお宮様」として崇敬され長岡藩主より数反の土地が奉納された。(のち水害で流失)
 当初伊勢神宮の神様一柱を祀っていたが開拓凡そ60年後の文化年間はじめ三度の大洪水に見舞われ廃村の瀬戸際に立だされた。
 然し、村民は村の再建を誓って文化14年8月(1817)八幡様と鹿島神宮の神を合祀して村の両建がなされた。
 以来水害に遣いながらも村は年月を重ねて安定した村落経営が進み家数も増えていった。
 開拓98年後の弘化元年(天保15年(1844))幕府の命により新潟町に次いで当地は上知されて幕府領になった。
 村落の名も新潟浜村之内流作場新田と公認され所謂天領となった。従って神社名も「流作湯大神宮」「流作場神明宮」と改まったが玄的のお宮様と親しく呼ばれた。
 やがて明治維新を迎えて一切が改変されて明治政府の神社行政により「神宮」号を禁ぜられ三社神社に改められて現任に至っている。
 昔は村相撲や花火の打ち場げ、飴祭り、酒祭りと言われ大変賑やかであった。因みに宗門の事は村民全て新潟町の寺院に属し当地には明治まで一寺も無かった。
   (万代コミ協だより 28号より抜粋)

天領 流作場地名考

開発権利金2,750両
 江戸時代後期天明から天保年代に掛けて幕政の綱紀は緩み、大飢饉、自然災害、大火や外国船の出没で世相は不安で、幕府の財政は逼迫していた。
 松平定信の突破の改革などが行われたが功を奏しなかった。
 天保5年老中になった水野忠邦は天保の改革を断行し、上知令(あげちれい)と奢侈禁止令(しゃしきんしれい)により、幕府財政回復と社会の綱紀粛正を図った。
 上知(上地)令とは国防を理由に幕府領を江戸10里四万、大阪5里四方に集め全国に点在する幕府領地と大名、旗本領地の献上交換を図る政策だったが反対多く失敗した。
 親藩大名長岡牧野家の領地新潟浜村の上知が天保14年下賜された。その理由は外国船の出没が多い事、目的は港で得られる莫大な税収であった。
 背景として天保6年・11年の二度新潟町で唐物抜荷事件があった。特に天保11年の時、幕府勘定吟味役川村清兵衛が隠密として新潟町で詳細に探索した。
 長岡藩はこうした事情から上知を断れなかった。
 天保14年9月28日川村は新潟奉行として赴任し、町役検断達を集め自分が江戸屋と言う飴売りで新潟町に住んでいた事を告げ皆を驚かせたと言う。
 次いで新潟浜村の内、寄居村と附寄島を検分し、天保15年(弘化元年)12月28日両地共に幕府所領(天領)となった。当時附寄島は家数40戸、人口380人であった。
 弘化3年地名を「肩書き新潟浜村の内越後国蒲原郡流作場新田」と公称し附寄島の名は消えた。
 開拓以来100年、庄屋阿倍家九世安倍誘五郎と庄屋見習い息子誘之助は其の職を解かれ、新潟町検断塩屋(松村)久蔵が流作場の庄屋を兼帯し、百姓組頭は渡浜甚助より、当村木山太右ヱ門に代わった。
 長岡藩より幕府所領と代わり、此れ迄の支配体制の変化を知らしめ、安倍家の特権を削ぐ事になった。
 遠祖安倍玄的翁が、開発権利金2,750両 (現在、2億7,500万円)を藩に納め、開村した労苦を思えば情の薄い政治の冷厳さを思い知らされる。
 因みに上知出来たのは全国で長岡藩だけであった。    (万代コミ協だより 29号より抜粋)

流作揚と戊辰戦争

 慶應3年(1867)10月14日第15代将軍徳川慶喜は朝廷へ大政を奉還し徳川時代は幕を下ろした。
 然し、対立する旧幕府方(東軍)と朝廷方(西軍)は慶應4年戊辰(ぼしん)1月3日京都鳥羽伏見で交戦し以後北越戦争、会津戦争と続き明治2年5月18日函館戦争で終結を迎えた戦を干支に因み「戊辰戦争」と言った。
 新潟は慶應4年7月25日から29日まで戦場になった。25日早朝太夫浜に官軍の軍艦6隻が現れ4隻から600名の兵士が上陸して新潟方面に進軍した。
 此れに対して新潟を統治していた米沢藩の兵200名と「奥羽越列藩同盟」に与する新発田藩兵200名が本所村光桂寺に出陣して阿賀野川西岸に防塁を築いた。
 7月26日官軍600名は松ケ崎より2隊に分かれて阿賀野川下流を渡河して米沢、新発田の陣地を銃撃した。
 新発田藩は官軍に内通し殆ど抵抗せすまた、偽情報を流し米沢軍の撤退を謀り官軍の道案内までした。
 官軍の追撃に米沢兵は上木戸、山木戸、竹尾で犠牲者を出し沼垂へ敗走し流作場を経て新潟町に陣を敷いた。
 官軍は午後8時頃沼垂へ到着したが既に銃撃戦の真最中で直ちに新潟須崎番所と流作場に新発田藩の徴兵隊により一塁を築き薩摩、長州、芸州、新発田兵達は対岸の東北軍へ27日に掛けて夜通し猛烈な銃撃戦を展開した。
 また、新発田藩の大砲1門を据えて砲撃した。官軍は29日午前2時沿岸に待機する軍艦より艦砲射撃を加え陸軍は同時に繰り出し信濃川渡河に成功した。流作場の一隊は朝、広小路に向け渡河して合流した。
 此の時官軍は新潟白山神社近くの民家へ火を放ち200軒余を焼く乱暴狼籍を働き官軍火事と町民に誹られた。
 この戦で東北軍は総崩れとなり戦争は終結して8月24日新潟町に正式に民生局が置かれた。東西両軍は地域で徴兵隊を編成した。
 流作場は天領で東軍に属し米沢藩の命令で村民の15歳から60歳までの男子全員竹槍隊を組織して沼垂の浄徳寺へ集合したが官軍の追撃速く出撃する事無く解散した。
 新発田藩徴兵隊は実戦に参加し、女池の新田半人翁が万代島での銃撃戦の凄まじさを物語っている。
 安倍九二造氏が勤皇家で750両を出して密かに武具武器を買い官軍に献納した事で官軍が駐屯した当地は天領にも関らず乱暴狼籍が無かったと言われている。
 然し、天領としてお咎めを受ける恐れありとして村総代本間家は天保9年の玄的村絵図一枚を残し開村以来の書類を全て焼却した。
 戦闘中安倍家の竹薮に砲弾が炸裂して一晩中燃え続けた事や銃撃戦中にお産が始まった家の事、村の犬が官軍の将校に吠え掛かり一刀のもと首を切り落とされた話が伝えられている。
 また、激戦の中関根家の灰小屋へ2人の米沢兵が逃げ込み砲弾2発を打ち込んだが不発であり戦後砲弾1発は持去った。
 残りの1発は同家に保存されて来たが当地開拓250年祭の折神社に奉納された。宮浦中学校校庭は昔悪水抜きの人工池で宮浦池があった。
 現代になり治水が整い池は埋め立てられ学校敷地となった。新潟大地震で傾いた校舎の復旧工事中に地中から畳半畳くらいの御影石にお題目が刻まれた石碑が見つかった。
 何物かを知る人無く調査の結果安倍九二造氏が戊辰戦争の犠牲者を悼み建立した慰霊牌であった。
 今は昔宮浦池のほとり草木茂る築山に建てられた碑は静かな寒村流作場が近代日本誕生の動乱期に戦場となった事の証を示すが今は知る人も無く既に150年の歳月流れて歴史の彼方の物語となった。
   (万代コミ協だより 30号より抜粋)

安倍邸「鳳趾閣(ふうしかく)」のこと

 鳳趾閣は当流作場の開祖安倍邸に明治11年明治天皇が北陸東海御巡行の途次小休所とせられた安倍家の行在所(あんさいしょ)の名称である。
 慶応4年(1868)朝廷方・幕府方に分かれて戦った戊辰戦争は朝廷方が勝利して明治と改元し天皇親政の明治維新は成った。明治天皇は新しい国造りのため民情視察を行い民心の安定と日本国民の意識統一を図った。明治十一年五月二十三日(一八七八)太政官で北陸東海民情視察が決まり同日新潟県令永山盛輝に内示があった。天皇の御巡行には行在所を始め供奉者の宿舎、道中警護、道普請、橋普請、衛生管理その他付帯の事柄で多額の経費を要し国のみで賄い切れずその道中に関る県や民間の協力が必要であった。特に宿泊施設、休息所等は地域の旧家、地主、大商家、本陣、神社仏閣などが当てられた。安倍家も「御小休所(おこやすみしょ)」を勤める事になった。
 その行程は明治11年8月30日皇居を出発して北陸道、東海道を視察して同11月9日皇居へ帰還と言う計画であった。8月30日東京を出発し浦和、高崎、長野を経て9月10日新潟県へ入り9月16日寺泊、弥彦、内野、赤塚を通り新潟へ到着。新潟町行在所白瀬成煕邸に宿泊され県庁舎、新潟学校、新潟裁判所、博物館などを三日間に亘り視察された。9月19日午前7時白瀬邸を出発、新造の御座船に乗られ25人の船頭達が威儀を正し目出度い「お舟歌」を高唱しながら漕ぐ三艘の曳き船に曳かれて多数の供奉船と共に日本晴れの信濃川を渡り安倍家新設の桟橋に到着(午前8時頃か)安倍九二造の先導で200mほど歩行され新設の行在所玉座に着き休息された。
 安倍家は当地の名産三吉梨一篭を献上し、村人達は家宝や盆栽、書画骨董を天覧に供した。安倍家は右大臣岩倉具視を始め供奉者一同へ梨六百貫余を贈った。供奉者総数830人、乗馬は天皇の愛馬金華山号をはじめ百十六頭、写真師二名、クリーニング係り十四名、ほかに新聞記者々6名が随行していた。馬や馬車、輿の運搬と数多いお供の人達は前日より当地へ先乗りし分散して宿泊した。安倍家では厩、馬車、輿の格納庫を新設し更に沼垂へ向かう御成り道を新しく開鑿して古信濃川に王橋を新架した,安倍家の話に依れば天皇は午前十時半頃に馬車に乗り新発田へ出発された。開村以来の大慶事で有り近郷近在から御竜顔を拝すべく奉迎の人々は山をなした。特に衛生管理面で食事は随行の大膳職が調理するが水は処の物を使うので前もって数箇所の井戸の水質検査がなされ沼垂の老舗和菓子店桜井勘桂の井戸水が良質と決まり用いられた。
 戦前は天皇のご休憩所「鳳趾閣」は文部省が国の聖跡と定め毎年9月19日を記念日として学童達が訪れ御座所を拝し安倍家からお菓子が振舞われた。
三社神社宮司 大橋 毅    (万代コミ協だより 32号より抜粋)

・・・・・And history is spun.